
恋愛交差点14では、「夫婦」の法的な条件とその中身について議論した。
今回は、その「夫婦」が成立する条件と考えられている「恋愛感情」について考えてみたい。
多くの人は「結婚するなら、恋愛感情のある人と結婚したい」、「好きだと思う人とでないとやはり結婚はできない」と言う。こうした「恋愛感情」が結婚の条件になるのはいつ頃だろうか。この「恋愛感情」を、きっとみなさんも「大事なもの」だと思うだろう。
けれど、それがもし「誰かの意図」で作られたものだとしたら、どうだろうか? 「好きな人と結婚したい」という願望そのものが、誰かにとって「都合のよいもの」として、結婚に利用されているとしたらどうだろうか? そもそも「好き」と思う感情が結婚の前になければならない理由はいったいどこにあるのだろうか?
みなさんが「好きな人と結婚したい」と思う恋愛感情(胸のトキメキ等)は、欧米では「romantic love (ロマンティックラブ)」という言葉に強い影響を受けたものである-もともと明治以前の日本には、「色」という言葉はあれど、「愛」や「恋」といった概念はなかったと言われている-。
「romanticな恋愛感情」は、現在、あらゆるところで「演出効果」によって高められている。クリスマスシーズンになると、「イルミネーション」が展示される。有名なところと言えば、神戸の「ルミナリエ」のイルミネーションは、romanticな感情を一気に引き起こすほどの「煌びやかさ」がある(オススメ!)。キラキラとしていて、胸がときめくようなシチュエーションに立たされると、人は皆、romanticな気持ちになる。キラキラしていて、ドキドキするような恋心もまた、同じromanticな気持ちであろう。
では、そのromanticな気分とはいったい何なのか(みなさん的には、「胸のときめき」を想像してほしい)。この問いは、「胸のときめきロマンティックラブへの問い(Die Frage nach romantischer Liebe)」と形式化したい。
そもそも「romantic(ロマンティック)」とは何か。英和辞典を見てみよう(英辞郎より)
romantic
【形】
恋愛の[を扱った]、ロマンチックな
空想的な、実際的でない、非現実的な、現実離れした、〔恋心が〕情熱的な、熱々の
【名】
ロマンチスト、空想家
多くの人が羨望するであろう「胸のときめき」の語源となるromanticな感情は、空想的であり、実際的ではなく、非現実的で、現実離れした感情ということになっており、常識的には、否定的な言葉だということが分かるだろう。
これは、みなさんの恋愛体験においても分かることではないだろうか(一部に、このromanticな恋愛感情を経験していない人もいると思うが、それがダメだということではない)。
ある人を見て、「素敵だな」と思い、知らず知らずのうちに目でその人を追うようになり、気づいたら、24時間ずっとその人のことを考えている。その人のことを想うと、胸がざわついてきて、何も手につかなくなる。その人との関係が生まれ、SNSやメール等でつながると、その人とのやり取りしか頭に入らなくなる。何か文章を「送信」したら、その瞬間から相手からの「返事」を待っている、というのも、romantic loveの現れと言えるだろう。
こうしたromanticな気持ち=感情を学問的に考えるならば、まず「romantic」という言葉の深い意味を理解することがまず必要となる。
romanticという言葉は、もともとは「roman=ローマ的」という意味で、「latin(ラテン)」の対語である(高貴なlatinに対し、通俗的なroman)。高貴で崇高なラテン的な愛ではなく、俗的・俗物的な愛が、romantic loveの根源的な意味と言えるだろう。
近代以降、romantic love(以下、「ロマンティックラブと表記する」という文脈では、この語は、「ロマン主義(Romanticism)」と深くつながっている。
ロマン主義は、「幼稚園」や「保育園」が欧州で誕生する頃(18世紀末~)に生まれた「思想」であり、現実を超えた(個の主観的な)世界を描写しようとする芸術運動であった。教育や保育で言われるところの「こども像」もまた、このロマン主義の運動の中で生まれてきたものだった(「こどもは愛おしい」「こどもは尊い」「こどもの内面性の豊かさ」といった感覚もまた実はロマン主義的発想である)。
非ロマン主義の立場に立てば、「子どもは無力で、使えない存在で、役に立たない存在で、きちんと調教しなければならない存在だ」ということになる。事実、小さい子どもほど、何の使い物にもならない邪魔な存在である(と考えることもできる)。乳幼児が自分の職場に来たら、それはもう「仕事にならない」。<だから>、親は保育所に自分の子を預けるのである。それが、「一般の人の現実的な感覚」であろう。
同じように、「恋する二人」も、外から見たら、邪魔な存在でしかない。想像してほしい。仕事で疲れてフラフラの状態で電車に乗っている時、恋するカップルが隣でいちゃいちゃして、「私の事、好き?」「うん、大好きだよ」「私も💛」などという空想じみた会話をしていたら、みなさんはどう思うだろうか。自分の中にこんな感情があったのか、と思うくらいに強烈な怒りの感情が湧くのではないだろうか。二人だけの個人的な世界は、現実離れした非現実的な世界であり、排他的であり、閉鎖的であり、現実を生きる人々にとっては、とても不愉快な世界でもある(と考えられる)。
ゆえに、(外から見れば非現実的で空想的な)「恋するカップルの二人だけの世界」も「かわいい子どもたちの世界」も、ロマン主義の思想の中から生まれてきたものだった。ロマン主義者は、こうした非現実的な世界を完全に肯定する。「現実」を否定し、「非現実」を追い求める、それこそが、ロマン主義の最大のねらいだった。
ロマン主義が描いたロマンティックラブは、現在の資本主義社会において打ち出された「小家族の理想形」となることになる。(家族の基盤である)夫婦の前提となる「個人と個人の情緒的な結びつき」(「好き」で結ばれる関係)は、まさに欧州のロマン主義によって作られた「考え」なのである。つまり、「好きな人と結婚したい」というみなさんの欲望は、18世紀~19世紀の欧州で沸き上がった近代的な欲望であり、欧州のロマン主義的思想に基づくものであった-いわゆる「恋心」「胸トキメキラブ」といった観念は、近代のヨーロッパで作られたもので、日本はこの「感情」を輸入したということになる-。
以下、このことを示す文献を読んでみたい。
ロマンティックラブと小家族の理想像
…今日もなお、ロマンティックラブの神話は、この時代(=資本主義が台頭する時代)に打ち立てられた小家族の理想像の一つである。この神話は、18世紀から19世紀の移行期に、歴史的で画期的な発展を遂げた。
ロマンティックラブが、最初まずもって、無政府主義(アナーキー)的で恐るべき力だと考えられたことは注目すべき点である。
このロマンティックラブの力は、そもそも資本主義的な商業という新たな経済のトレンドに合ってないし、その経済のトレンドと結びついた市民的家族構成に適していない、と考えられていた。[ゆえに]当初のロマンティックラブのイメージは、望むべき場所へ、すなわち予測不可能な運命へと倒れ落ちていった。この愛する者たちを襲撃する予測不能な力は、確かに、ロマンティックラブの名の下で社会秩序や階級層に逆らう勇気を愛し合う人たちに与えるのである。あの最も有名な例を思い出そう。そう、ゲーテのウェルテル(1774)だ。ウェルテルは、ロッテとのロマンティックラブの唯一の打開策は「自殺」だと考えた。
したがって、ロマンティックラブを意図的に小家族の理想像に役立たせるためには、そのロマンティックラブの扇動的で革命的で破壊的な要素を抹消せねばならなかった。その後、ラインハルトが述べているように、「口語事典や助言者たちは、次第に愛の酔狂的な危険性よりも、愛の救済力や治癒力を強調するようになったし、その用途に従い、19世紀型の休みなく働き続ける男たちが、自分の妻に、安らぎと安心を求めるようになった。つまり、かの有名な「ノスタルジア」を求めるようになった」(2007.S.25)ということも起こった。ロマンティックラブは、別居や離婚といったこととは違い、普遍的なもの(Universalie)ではなく、ゆえに、全ての文明やすべての時代にあったものではなく、西洋の歴史を示す特徴的な現象なのであった。
この文章は、欧州の学術書なので少し読みにくいが、よく読むと、今のわれわれの社会における「恋愛」の二面性、すなわち「破壊性」と「安らかさ」が見えてくるようになるだろう。
恋するカップルの世界は、閉鎖的な世界であり、閉ざされた世界である。そこに誰かが割って入ろうものなら、その二人から睨まれるだろう。また、その恋する若い二人が、もし親や教師といった権威的な人間から、「別れろ!」と言おうものなら、その二人は団結して、その親や教師に逆らい、激しく抵抗するだろう-かつて、僕も、学生の恋愛に口を出して、嫌われ、憎まれたことがあった-。そのような勇気を与えるのが、ロマンティックラブという神話である。ロマンティックラブは、権威や権力に抵抗する力を恋する二人に与えるのである。「愛のために戦う」という映画はもう数えきれないくらいにある。
そんなロマンティックラブは、世の中からすれば、「危険な感情」ということになる。そうした危険性を排除し、いわば「骨抜き」にしたのが、「家族の安らぎ」としてのロマンティックラブである(この安らぎもまた、非現実的で空想的ということになるが…)。
冒頭の「好きな人とでないと結婚したくない」という意見は、まさにこの「骨抜きされたロマンティックラブ」の一例となることになる。家族に「愛」や「安らぎ」(すなわち「ノスタルジア」)を求めるようになったのは、上の文にあるように、西洋(ヨーロッパ諸国)に固有な思想ゆえだったのである-当然ながら、それは「キリスト教」の思想とつながっている-。
「私はお互い好き同士が結婚して夫婦になれたら幸せだなと思います。しかし、夫婦になると色々な問題が起きるし、大変なこともあるんだろうな」(某さんの意見)
ここに今回の問いが示されている。「好き同士が結婚するから、大変なことがあるのか」、それとも、「好き同士が結婚すれば、大変なことはいくらか緩和されるのだろうか」、と。更に言えば、「好きかどうかを問わずに結婚すれば、その二人の間には問題は起こらないのではないか?」、と。
「好きな人と結婚すること」は本当に正しい見解なのだろうか。
「好きな人でないと結婚してはいけないのか」は疑う余地のないことなのだろうか。
この自明性を問うことに、意味はあるのだろうか。